utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ14

ダスビ・ダーニャなら通じるだろうとの考えにたどり着いた。いろいろ考え倦んで、とりあえず通じるだろう別れの挨拶の単語を、彼女の帰り際に投げかけてみることに心を決めた。

 クライアントから要求されたタスクを十分に果たし、自らの個人的なビジネスの延長線上のちょっとした商売が付加されていた。そのちょっとしたブローカービジネスは、彼女の思い通りにはならなかった。しかし、彼女のしたたたかさと頼もしいビジネスパートナーとしての信頼感を対峙するクライアント側に与える効果を伴っていた。

 金髪のロングを無造作にポニーテールに後ろで纏め、ブルージーンにボディーラインをなぞった黒のニットセーター、その上にジーズのジャケット    最初に出会ったとき思わずみとれた。彼女のすべてがわたしの身近な世界観を凌駕していた。彼女がワークする間中、スカイプ越しに現地人弁護士と邦人企業の代表者とのやり取りを通訳をするさまを見ていた。いや、彼女の鋭利な横顔に見とれていた、いや魅入られていた。

 午前中に博物館に寄って、当日の最低限の日課を終えたあと、アメ横の通りを人並みの流れに抗して歩み、JR御徒町駅の辺りで山手線の下をくぐり抜けて、蔵前通りに平行した、下町枝道を浅草橋を目指してぶらついた。

 アポイントメントをとっていなかったので、面会相手がいない場合も想定できるが、その場合は両国あたりを散策すればよいと考えていた。先方が必要とする場合は連絡してくるであろうし、順調に進んでいるのであろうと考えていた。

『ロシア語の勉強してます。』と初対面のロシア語通訳の女の興味を引くために餌を撒いた。

『何でも聞いて下さい、何でも大丈夫です。』と女は、日本人の男に対するいろはで応対した。    女は初対面の男を見据え、社交事礼の笑みを口元に溜め、彼女の仕事場で声をかけてきた男がクライアントとどのような関係者なのだろうか、どのように対応することがベターなのだろうかと評価していた。

 ロシア語、英語、日本語と北方系の中国語を流暢に操るアラフォーのロシア美人の切れ長の目尻にアイラインが鋭利な顔の作りにアクセントを際立たせている。日本の国籍も持っており、ロシアのパスポートより、オレンジ色の日本のそれの方が世界を旅するのに都合がすこぶる便利だろうことが容易理解出来るため、元夫の日本国籍に離婚後も入っていることは理屈が通ることであった。

 ユリアと言う名前をはじめ覚えるのに、一時期流行った漫画の主人公の恋人役の名前と同じであったので、漫画の主人公を思い出しては彼女の名前まで辿り着いていた。要するに、『ケンシロー』を頭に浮かべ、『ユリア』に変換していた。なにかのとき、印象に残った彼女の端正な横顔をふと思い出すと、北斗の拳が登場して、彼女に行き着いた。たまには敵役の『ラオー』から彼女の名前に行き着き、切れ長の鋭い目尻を思い出していた。

 ユリアと言う名前は古代ローマでユリウスから来るユリウス家の女を表す愛称であり、ローマ皇帝ユリウス・シーザーに通じ、英語圏ではジュリアとなる。ユリウス・アウグスチウスもローマ皇帝になっているので、皇帝家の娘と言うような感じなのだから、高貴な響きを持つ呼び名となる。ウクライナやドイツ地方に多いと聞くので、東ローマ帝国の版図と重なり、その帝国がオスマントルコの隆盛により衰退する過程で、東ローマ帝国の文化面はカトリック正教会が宗教とともにロシアの大地に待避していったと見れないこともなく、ローマ帝国の皇帝家の娘の名がロシアの大地に移植されたと考えれば合点がいく。

 女本人からすれば、名前は生まれたときに本人の意識が芽生える以前に、親族よって命名される。ロシア人の名前は3つの部分からなり、娘の名前の中に父親の呪文が込められている。その呪文とは、名前+父称+苗字となり、ユリア・ミハイロビナ・ソトニコフと言う名前の場合は、ソトニコフ・ミハイロフの娘であるユリアと言うことになるらしい。名前の構成要素のうち2番目のミハイロビナとはミハイロフ+ビナがミハイロビナと、父名ミハイロフの末尾のフの撥音便が無音化され、娘の場合がビナとなり、息子の場合はビッチとなる。

 ロシアに生まれてきた娘は、父親が彼女自身の名前によって呼び覚まされるように、セカンドネームとなり彼女を生涯に渡り、そして墓に入った後も背後霊のごとく、呪文となり封印され名前の中で生き続けるようだ。

 彼女と初めての出会いは、鳥越神社の銀杏の木が黄色く色づき始めた季節に、友人の病完治の願掛けをした後に訪れた、ベンチャー企業の一室で行われたその企業の命運をかけた会議に行きがかり上同席したときのことであった。