utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ30

 繁華街から少し離れたホテル街の1軒に、駐車場変わりで入店した。前払いする際、車を置いたままで食事をして来たい旨を説明して、目的の店までお初天神の前に続く曽根崎通りを私鉄のターミナルを目指して歩いた。

 その天神の言われを知っていたようだったが、現地を訪れるのは初めてのようだ。境内に入ると、おみくじを引いたり拝殿参拝したり、女はツアーガイドとしての興味をそそるようで、一つひとつ興味を引いたものについて、詳しい説明を男に求めた。

 おみくじの説明書きが旧体漢字が使用されており、いまどきの日本人でも読みづらいご託宣の文面となっていた。漢字が判読出来ないので、訊いて来るかと男が構えていると、女はしばらく、手元の巻紙の字面に目を落としていたが、何故か、内容の問い合わせをしようとしなかった。

 新御堂筋から梅田への降り口のある交差点まで出て左折し、一方通行の車の流れに沿って、新緑の銀杏並木をそぞろ歩いた。女がたっぱがありブロンドの髪を下ろしているので、街の雑踏の中でも一段と一目を引いて、知り合いに見咎められると厄介だった。男が横断歩道で足早の歩調になるのを見て、女の口元が笑った。こころの奥底を覗かれたようで、罰が悪そうに自嘲気味な素振りを街角の雑踏の中で演じていた。

 初夏の少し湿度を帯びた風が、信号が点滅し始めた横断歩道の渡り際、疎らになった歩行者の群れの中を吹き抜けた。一陣の風の中にブロンドの髪が長く揺れていた。

 目当ての小料理屋でカウンターの端に女を奥にして陣取った男は、料理は店のお任せにして、彼女が喜びそうなメニューにしてくれるように、顔見知りの板前に頼んだ。

 『まずは、こんなもんで!』とつい先ほどまで、目の前の水槽で泳いでいた鰯が、綺麗に小皿の上で紫蘇の葉にくるまれて出されて来た。事情を勘ぐった彼がカウンター越しに目配せして来るので、見詰め返すと小さく頷き、一瞬、目を見開いて女を注視したあと、手元の料理に視線を移した。

 キッチンカーの元締め業を営む会社のリサーチにこの街に来ていた。当初考えていた、両国辺りの周遊観光が、最近発生した地政学事情により実行不可能になり、女が生活してゆく術を見つけなければならなくなった。彼女の国の家庭手料理を街角で販売すれば、商売として成り立ちそうに考えてのことであった。元手が少なくすむこと、販売する出先を斡旋をしており、さらに料理の材料手配も提供サービスとしてあるようだった。仕組みに乗れば、ある程度の目処が立ちそうであり、同業の仕事仲間と共同でやれば、上手く回りそうな予想が立った。但し、リスクとして、生まれた国柄の問題は最後まで残った。提供する料理自体は、希少性もあり競争力はあると思われるが、この国のモノトーンな国民性として、情緒が一方に傾斜したとき、極端に排外的になるので、店舗営業中に嫌がらせなど突発的な困難が発生する可能性が出てくる。自立した生計は自らその困難を克服した先に開けることを当人自身も理解しての泪であったようだ。

 車の運転があるので、アルコールを控えていたが、女の新しい門出でもあり、祝杯を上げることにした。男は、忘れないうちに宿に連絡を入れた後、棚に並んだ炭酸系の最近流行りの甘口のワインボトルが目に付いたので、とりあえずワインで乾杯をすることにした。

 キリル語のラベル表示ボトルからメジャーカップに酒を量り、透明な液体が金属光沢を放つボトル内に投入された。ガムシロップと手絞りのグレープフルーツ果汁を加え、ロックアイスを満たしたあと金属製のキャップで蓋がされた。徐に左肩の上方にシェイカーを持ち上げて、慣れた手つきでしばらく振った後、シェイクボトルをカウンターテーブルにそっと置いた。傍らのグラスを手にとり、その透明な縁を薄く切ったレモン片で拭った後に、ナプキン上に塩の小山を作り、グラスの縁をローリングして塩がまぶされた。ロックグラスをテーブルに静かに置くと、濁りのある液体がシェイクボトルから注がれ、ソルテイードッグがテーブルに現れた。高級クルーズ船のバーラウンジで、バーテンダーがどうぞ召し上がれと、両手を開いて促した。

Пожалуйста, подождите, капитан. Выпить

 水平線の少し上方に太陽がいくつも昇っては降りた。フェリーボートの窓から見える天空は薄いオレンジ色に染め抜かれいる。悠久の時間軸の中を男の思念がさまよった。

 ソ連邦崩壊後に、川に沿って開けたコルホーズ主体の都市は、一部の鉱山の街以外は、それぞれの産業需要が蒸発して、都市の経済基盤が成り立たなくなると、ほぼ全てのそれらの都市が衰退してしまった。シベリアの大地が鉱業資源に恵まれいることは普遍的事実であるため、その社会ニーズが再び高まれば、廃墟と化した街も再生する可能性は充分にある。そこまでのアクセスが問題として残るが、巷で大問題の地球の温暖化が凍結した北極海航路を融解し、解決の糸口を提供しそうだ。

 9500年以前、ウラル山脈の東山麓から広がる西シベリア平原には壮大な氷河湖が存在した。その東端側の中央シベリア高原との境目添いにエニセイ川として残り、平原中央にオビ川が流れることに至った。エニセイとはエバンキの言葉で、大いなる流れの『イオアネシ』に由来する。初夏の雪解け時に厚い氷でせき止められ、川が氾濫するのを防ぐため、ダイナマイトによる爆破が行われ、川の運行を確保している。現地の生活圏は川の水面より10メートル以上の上方の河岸段丘上に営まれており、それ以上に融雪時の川面が上昇すれば、街は必然的に原野に押し流されてしまう。堤防嵩上げによる治水自体が意味を持ち得ない、圧倒的な自然の力が支配している世界となる。

 行き詰まって、北極海側へ流れない氷河湖の水は、最終的に黒海側に流れることになってしまう、そのためクラスノヤノスク以北には橋は架かっておらず、両岸の行き来はフェリーボートを利用することになる。尤も、凍った川面はトラックの通行可能となる程頑丈なので、その時季に橋はいらない。年間の大半が凍りついているので橋はいらないどころか、却って融雪時の水流の障害物となってしまう。

 2億5000万年以前、現在の5大陸がプレート・テクトニクスにより一つに纏まった超大陸パンゲアが存在した頃、集合大陸のモザイクの一編がシベリアクラトンとなる。そのクラトンは、モザイク片の中でも創造年代が最も古く、『原始地球が溶鉱炉のような熱く溶けた鉄の溶融体であったころに、その溶鉱炉の表面に漂うスラグ状の塊が冷え残って出来上がったプレートである』と考えれば、超保守的で安定した大陸となり、また、その成り立ちから鉱物資源の塊のような大陸となる。

 ロシア帝政時代からコサックが毛皮を求めて、東征してゆくときに、オビ川の丘陵地帯の向こう側にエニセイ川の支流へと進出し、川に沿って砦を次々に築いていった。毛皮を求めての東征であり、原住民に毛皮納付による税を掛けたりもした。モンゴル大帝国がユーラシア大陸全体に膨張した時代に、モンゴル系の民族も含めて多種多様な種族が比較的暮らしやすいポイントのみに点在することになった。ロシア帝国のシベリア征服自体も、各地の点在する地域部族が帝国の傘下となり、居住地周辺の山野が植民地として、ほとんど大きな障害もなく拡張されていった。

 ソ連邦時代にはロシア帝国時代からの植民地にロシア人の移住が行われていったが、シベリアは極端に過疎であるため、移住自体は比較的障害無く進んだ。流刑地であり、囚人労働主体で金などの鉱物資源開発で栄える都市も出て来たが、連邦崩壊以降まで永続している都市は少ない。

 琥珀色に行く手の天空を染め抜かれた、滔々と流れる初夏の川面を4階建ての白いフェリーボートが、北極海へといざなうエニセイ湾に入った。船はノースポールを目指して面舵を切った。向かって左向きに遠心力が掛り、寄り添って来た隣席の女の重量感を柔らかく受け止めた。旧来型の豪華客船仕様の船は、最上階の前部が展望デッキとして側壁が取り払われたラウンジ仕様になっていた。一枚板のシベリア産のレッドウッドで作られた、褐色のバーテーブルの中央あたりに、クルーズ観光を主催している男女が席を占めて、船側の責任者を待っていた。ユリヤが手元に小さな紙片を開いて見詰め物憂げにしている。何処かで見たような光景であった。男は彼女がお初天神でお神籤を引いたことを思い出した。なんと書いてあるのだろうと気になり、女の固く握った手元を男の両手で無理に開いて覗くと、何も書かれていない、ただの白い紙切れが現れた。

 すると、バーテーブルが微かに震えていることに気付いた。よく見ると表面が鱗状に光って息づいている。男が訝しく思って、しばらく注視しているうちに、それは大蛇のうねる胴体となり、隣席の女はその鎌首と一体となり、男の胴体に巻きついた。巻きつき絞りあげた褐色の胴体に緊縛され身動きが出来ないのだが、どういう分けか柔らかく暖かさも帯びていた。いつしか白く逞しい女の太股に変わり男を仰向けに組み伏した。そして、彼を見据えたまま上体を起こし、上方に天を仰いで反り返ると、ジャブダルの化身となって狂おしくのたうち、その世界の征服者として、頂点に達した叫びを上げた。

 あの一等航海士が船長として乗り込んでいた。ことの顛末を理解している彼はソルティー・ドックのグラスを飾して、

Приветствую прекрасного! любовника!

と祝杯を上げた。

 遠く、悠久の彼方から誰かを呼ぶ声が聞こえた。意識をそれに集中すると、それは、男の名前を呼ぶ声のようである。誰が呼んでいるのか知りたくなって、目蓋を開いた。

 暗闇に目を見据えると、ブルーの瞳が男の顔を覗き込んでいた。青い瞳に反射的に覚醒した男の意識が呪文を唱え始めた。

 Я вас любил : любовь ещё, быть может ,

 В душе моем угасла не совсем;

 Но пусты она вас больше не тревожит;

 Я не хочу печалйть вас ничем.

 Я вас любил беэмолавно,беэнадежнао,

 То робстью,то ревностью томйм;

 Я вас любил так искренно,так нежно,

 Как дай вам бог любимой.

 彼が口づさむ愛の調べに反応するように、 目の前の青い瞳孔はなおいっそう大きく見開かれ、いつしか愛しい女の微笑みに変わっていった。