utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ30

 繁華街から少し離れたホテル街の1軒に、駐車場変わりで入店した。前払いする際、車を置いたままで食事をして来たい旨を説明して、目的の店までお初天神の前に続く曽根崎通りを私鉄のターミナルを目指して歩いた。

 その天神の言われを知っていたようだったが、現地を訪れるのは初めてのようだ。境内に入ると、おみくじを引いたり拝殿参拝したり、女はツアーガイドとしての興味をそそるようで、一つひとつ興味を引いたものについて、詳しい説明を男に求めた。

 おみくじの説明書きが旧体漢字が使用されており、いまどきの日本人でも読みづらいご託宣の文面となっていた。漢字が判読出来ないので、訊いて来るかと男が構えていると、女はしばらく、手元の巻紙の字面に目を落としていたが、何故か、内容の問い合わせをしようとしなかった。

 新御堂筋から梅田への降り口のある交差点まで出て左折し、一方通行の車の流れに沿って、新緑の銀杏並木をそぞろ歩いた。女がたっぱがありブロンドの髪を下ろしているので、街の雑踏の中でも一段と一目を引いて、知り合いに見咎められると厄介だった。男が横断歩道で足早の歩調になるのを見て、女の口元が笑った。こころの奥底を覗かれたようで、罰が悪そうに自嘲気味な素振りを街角の雑踏の中で演じていた。

 初夏の少し湿度を帯びた風が、信号が点滅し始めた横断歩道の渡り際、疎らになった歩行者の群れの中を吹き抜けた。一陣の風の中にブロンドの髪が長く揺れていた。

 目当ての小料理屋でカウンターの端に女を奥にして陣取った男は、料理は店のお任せにして、彼女が喜びそうなメニューにしてくれるように、顔見知りの板前に頼んだ。

 『まずは、こんなもんで!』とつい先ほどまで、目の前の水槽で泳いでいた鰯が、綺麗に小皿の上で紫蘇の葉にくるまれて出されて来た。事情を勘ぐった彼がカウンター越しに目配せして来るので、見詰め返すと小さく頷き、一瞬、目を見開いて女を注視したあと、手元の料理に視線を移した。

 キッチンカーの元締め業を営む会社のリサーチにこの街に来ていた。当初考えていた、両国辺りの周遊観光が、最近発生した地政学事情により実行不可能になり、女が生活してゆく術を見つけなければならなくなった。彼女の国の家庭手料理を街角で販売すれば、商売として成り立ちそうに考えてのことであった。元手が少なくすむこと、販売する出先を斡旋をしており、さらに料理の材料手配も提供サービスとしてあるようだった。仕組みに乗れば、ある程度の目処が立ちそうであり、同業の仕事仲間と共同でやれば、上手く回りそうな予想が立った。但し、リスクとして、生まれた国柄の問題は最後まで残った。提供する料理自体は、希少性もあり競争力はあると思われるが、この国のモノトーンな国民性として、情緒が一方に傾斜したとき、極端に排外的になるので、店舗営業中に嫌がらせなど突発的な困難が発生する可能性が出てくる。自立した生計は自らその困難を克服した先に開けることを当人自身も理解しての泪であったようだ。

 車の運転があるので、アルコールを控えていたが、女の新しい門出でもあり、祝杯を上げることにした。男は、忘れないうちに宿に連絡を入れた後、棚に並んだ炭酸系の最近流行りの甘口のワインボトルが目に付いたので、とりあえずワインで乾杯をすることにした。

 キリル語のラベル表示ボトルからメジャーカップに酒を量り、透明な液体が金属光沢を放つボトル内に投入された。ガムシロップと手絞りのグレープフルーツ果汁を加え、ロックアイスを満たしたあと金属製のキャップで蓋がされた。徐に左肩の上方にシェイカーを持ち上げて、慣れた手つきでしばらく振った後、シェイクボトルをカウンターテーブルにそっと置いた。傍らのグラスを手にとり、その透明な縁を薄く切ったレモン片で拭った後に、ナプキン上に塩の小山を作り、グラスの縁をローリングして塩がまぶされた。ロックグラスをテーブルに静かに置くと、濁りのある液体がシェイクボトルから注がれ、ソルテイードッグがテーブルに現れた。高級クルーズ船のバーラウンジで、バーテンダーがどうぞ召し上がれと、両手を開いて促した。

Пожалуйста, подождите, капитан. Выпить

 水平線の少し上方に太陽がいくつも昇っては降りた。フェリーボートの窓から見える天空は薄いオレンジ色に染め抜かれいる。悠久の時間軸の中を男の思念がさまよった。

 ソ連邦崩壊後に、川に沿って開けたコルホーズ主体の都市は、一部の鉱山の街以外は、それぞれの産業需要が蒸発して、都市の経済基盤が成り立たなくなると、ほぼ全てのそれらの都市が衰退してしまった。シベリアの大地が鉱業資源に恵まれいることは普遍的事実であるため、その社会ニーズが再び高まれば、廃墟と化した街も再生する可能性は充分にある。そこまでのアクセスが問題として残るが、巷で大問題の地球の温暖化が凍結した北極海航路を融解し、解決の糸口を提供しそうだ。

 9500年以前、ウラル山脈の東山麓から広がる西シベリア平原には壮大な氷河湖が存在した。その東端側の中央シベリア高原との境目添いにエニセイ川として残り、平原中央にオビ川が流れることに至った。エニセイとはエバンキの言葉で、大いなる流れの『イオアネシ』に由来する。初夏の雪解け時に厚い氷でせき止められ、川が氾濫するのを防ぐため、ダイナマイトによる爆破が行われ、川の運行を確保している。現地の生活圏は川の水面より10メートル以上の上方の河岸段丘上に営まれており、それ以上に融雪時の川面が上昇すれば、街は必然的に原野に押し流されてしまう。堤防嵩上げによる治水自体が意味を持ち得ない、圧倒的な自然の力が支配している世界となる。

 行き詰まって、北極海側へ流れない氷河湖の水は、最終的に黒海側に流れることになってしまう、そのためクラスノヤノスク以北には橋は架かっておらず、両岸の行き来はフェリーボートを利用することになる。尤も、凍った川面はトラックの通行可能となる程頑丈なので、その時季に橋はいらない。年間の大半が凍りついているので橋はいらないどころか、却って融雪時の水流の障害物となってしまう。

 2億5000万年以前、現在の5大陸がプレート・テクトニクスにより一つに纏まった超大陸パンゲアが存在した頃、集合大陸のモザイクの一編がシベリアクラトンとなる。そのクラトンは、モザイク片の中でも創造年代が最も古く、『原始地球が溶鉱炉のような熱く溶けた鉄の溶融体であったころに、その溶鉱炉の表面に漂うスラグ状の塊が冷え残って出来上がったプレートである』と考えれば、超保守的で安定した大陸となり、また、その成り立ちから鉱物資源の塊のような大陸となる。

 ロシア帝政時代からコサックが毛皮を求めて、東征してゆくときに、オビ川の丘陵地帯の向こう側にエニセイ川の支流へと進出し、川に沿って砦を次々に築いていった。毛皮を求めての東征であり、原住民に毛皮納付による税を掛けたりもした。モンゴル大帝国がユーラシア大陸全体に膨張した時代に、モンゴル系の民族も含めて多種多様な種族が比較的暮らしやすいポイントのみに点在することになった。ロシア帝国のシベリア征服自体も、各地の点在する地域部族が帝国の傘下となり、居住地周辺の山野が植民地として、ほとんど大きな障害もなく拡張されていった。

 ソ連邦時代にはロシア帝国時代からの植民地にロシア人の移住が行われていったが、シベリアは極端に過疎であるため、移住自体は比較的障害無く進んだ。流刑地であり、囚人労働主体で金などの鉱物資源開発で栄える都市も出て来たが、連邦崩壊以降まで永続している都市は少ない。

 琥珀色に行く手の天空を染め抜かれた、滔々と流れる初夏の川面を4階建ての白いフェリーボートが、北極海へといざなうエニセイ湾に入った。船はノースポールを目指して面舵を切った。向かって左向きに遠心力が掛り、寄り添って来た隣席の女の重量感を柔らかく受け止めた。旧来型の豪華客船仕様の船は、最上階の前部が展望デッキとして側壁が取り払われたラウンジ仕様になっていた。一枚板のシベリア産のレッドウッドで作られた、褐色のバーテーブルの中央あたりに、クルーズ観光を主催している男女が席を占めて、船側の責任者を待っていた。ユリヤが手元に小さな紙片を開いて見詰め物憂げにしている。何処かで見たような光景であった。男は彼女がお初天神でお神籤を引いたことを思い出した。なんと書いてあるのだろうと気になり、女の固く握った手元を男の両手で無理に開いて覗くと、何も書かれていない、ただの白い紙切れが現れた。

 すると、バーテーブルが微かに震えていることに気付いた。よく見ると表面が鱗状に光って息づいている。男が訝しく思って、しばらく注視しているうちに、それは大蛇のうねる胴体となり、隣席の女はその鎌首と一体となり、男の胴体に巻きついた。巻きつき絞りあげた褐色の胴体に緊縛され身動きが出来ないのだが、どういう分けか柔らかく暖かさも帯びていた。いつしか白く逞しい女の太股に変わり男を仰向けに組み伏した。そして、彼を見据えたまま上体を起こし、上方に天を仰いで反り返ると、ジャブダルの化身となって狂おしくのたうち、その世界の征服者として、頂点に達した叫びを上げた。

 あの一等航海士が船長として乗り込んでいた。ことの顛末を理解している彼はソルティー・ドックのグラスを飾して、

Приветствую прекрасного! любовника!

と祝杯を上げた。

 遠く、悠久の彼方から誰かを呼ぶ声が聞こえた。意識をそれに集中すると、それは、男の名前を呼ぶ声のようである。誰が呼んでいるのか知りたくなって、目蓋を開いた。

 暗闇に目を見据えると、ブルーの瞳が男の顔を覗き込んでいた。青い瞳に反射的に覚醒した男の意識が呪文を唱え始めた。

 Я вас любил : любовь ещё, быть может ,

 В душе моем угасла не совсем;

 Но пусты она вас больше не тревожит;

 Я не хочу печалйть вас ничем.

 Я вас любил беэмолавно,беэнадежнао,

 То робстью,то ревностью томйм;

 Я вас любил так искренно,так нежно,

 Как дай вам бог любимой.

 彼が口づさむ愛の調べに反応するように、 目の前の青い瞳孔はなおいっそう大きく見開かれ、いつしか愛しい女の微笑みに変わっていった。

待ち合わせ29

 遠く水平線に浮かぶ白い氷原を背景にして、オレンジ色に染め抜かれた、極北の海の夕暮れをフェリーボートの舳近くのデッキから眺めていた。太陽は沈まないないままで、しばらくすれば、再び天空に戻り船の周りを旋回して再び降下してゆく、荘厳な自然界の摂理の美しさに圧倒されていた。

 顔なじみになった非番の乗組員が、男を認めて話し掛けて来た。ウオッカの入った、ステンレス製の携帯用ボトルを差し出された。

 Как у вас дела?『ご機嫌いかが?』

 Не жалуюсь『まあ、まあですね~』

 ボトルを受け取って、一口煽った。熱い刺激がのどごしに流れ、体の中の何処かに墜ちていった。

 Что нового?『最近どう?』

 Ничего особенного『変わらないよ!』

 夕陽の緞帳が降りるオレンジ色の世界に身を置いて、彼のヤクーツクに於ける暮らしぶりの問わず語りを聞き続けた。男のことをよく知っているように振る舞う、彼に違和感のようなものを感じていた。

 Увидимся позже!『またね!』と別れの挨拶をした彼は、船尾の方に歩いていった。

 彼は一等航海士であり、非番ということは、キャビン・デッキには、その男の替わりに船長がフェリーボートの進路管理をしていることになる。

 航海のはじめ、ダブル・ブッキングによる客室の交換をしたとき、一等航海士の彼が船長代理で立ち会った。ツアーガイド役として乗船していた、女とトルドー夫妻の客室のアテンドに間違いがないのか?後日クレームが発生しないための立会人となっていた。

 ことの顛末を詳しく知っており、2人の乗客が奇妙な同室劇を演じる、その船上劇の幕を開けた、芝居小屋の支配人のような立場であった。

 彼は日本料理のファンであり、ヤクーツクにある、日本の商社が運営するビルに誘致された、テナントのラーメンが旨いと言った。中国人が作る麺料理よりも日本の味が好きなようだ。ロシアの男は、女の作る高カロリーの手料理とウオッカの飲み過ぎで長生きしないのだとも言った。だから、シベリアには昔から未亡人が沢山いるのだと笑っていた。

Вам нравятся русские женщины?『おまえは、ロシア女が好きか?』

Вы ели домашнюю еду женщины?『女の手料理は食べたか?』

Тебе понравился вкус?『味は気に入ったか?』と矢継ぎ早に問い掛けて来たので、とりあえず、

Приветствую вдову!『未亡人に乾杯!』と返すと、

Приветствую прекрасного! любовника!『美しい恋人に乾杯!』と返された。

 2人が、ツアーガイドと顧客という、一方が他方を気遣う関係から、女の日常生活の助手役に変わっていくさまをキャビン・デッキから双眼鏡の2つのレンズをとおして、男女が演ずる無声劇の一部始終を遠く眺めていたのだった。情報が限られた無音の世界で、男女が繰り広げる無防備な心の変化が手にとるように判読することが出来たのだった。

 船の行く手に、乳白色の霧が立ちこめて来た。行くてを見通せないが、慣れた航路をフェリーボートは、霧の一番濃い部分に舵を切って、微速前進となった。

待ち合わせ28

 ユリアとの船内スイートルームでの生活が7日目となった。バスとトイレ以外は終日視界の中にお互いを置いての生活が1週間過ぎた頃から、その唯一の個室使用でバッティングが発生するようになった。はじめは戸惑いがあったが、2度3度と繰り返すうちに、それも慣れによる不可侵域へのお互いの出入りを互いに受け入れるようになっていた。

 就寝時に同じベッドで無防備な姿を晒しているのだから、身近にすぐ隣で触れ合うように、息づく寝息を感じ続けるうちに、互いの肌が直接触れ合うこともしばしばとなり、ごく自然に互いを受け入れていった。日中のツアーのイベントの段取りを手伝うようになり、当然のように女の指示するワークをこなしていった。先頭を導くツアーガイドに従って歩く隊列の最後尾に位置取りして、恋人役の女の研ぎ澄まされて、周到に働く姿を雄大なシベリアのパノラマのなかに映しだして、ただ眺めて旅が過ぎていった。

 夕食後、朝食前には食後食前のスポーツのように交わった。それがこの地の普通な習わしなのだと、旅を終えてはじめて知ることとなった。時間が許せばランチのあとも交わった。女は私の一部となり、極北の低い太陽のように沈むことが決してなく、ラプラテの海の底に蠢き、スバーバル諸島あたりから沈み込み北極海底を渦巻くメキシコ湾流ように、深く愛しさは日々増して暖かみを帯び、後戻りが出来ないところまで行き着き、いまにも浮力を得て海面に吹き上がりそうになっていた。

 エバンキの天地の創造神であるジャブダルの叫びが聞こえた。シベリアの大地を滔々と流れ抜き、レナ河口域で浮力をなくして海の底に沈んだはずの声が聞こえた。

 暗闇に街の明かりが目立ちはじめた、川の手前の乗り口から本線に合流する車の赤いテールランプの群れが前面に広がった。淀川を片側4車線の新御堂筋を南へ難波の北の街を目指した。行き付けと言うほどではないが、夕食の店として水槽で泳ぐ鰯を小料理仕立てする店を選んでいた。ツアーガイドで各地を回っていると言えど、新天地であろうと推測しての趣向であった。気丈な女が涙を見せたこともあり、気分転換にも都合がよいだろうとの考えに至ったのだが、ことの収拾をどうすべきか、見当もつかないでいた。

待ち合わせ27

 猟犬が草原の緑のカンバス上に一文字の矢を描いた。牧童が鬣の長いヤクート馬の背に乗り家畜の群れを後方から追い立てている。バイソンの群れの行く手を弧を描いて牽制するハスキー犬と連動して、白い獣がその弦を突き抜け、家畜の群れを次の放牧地へと導いていた。シベリア原産のバイソンは帝政ロシア時代、この地開拓時にコサックによる狩猟により生息数が極端に激減したため、近年カナダから移植したものが観光資源として共和国で保護対象となっている。

 黒目がちな2の眼が純白の毛の合間から私を見つめ、尖った両耳を立て愛くるしい所作を漂わせて両手の中に収まった。草原で矢を描いた子犬であった。ひと慣れしており、全く獣としての鋭利な牙を感じない。シベリア原産のサモエドスピッツの原産種であり、地元民と何世紀も同居することで、体型ががっしりして力持ちであり、その上粗食に耐えるため、家畜の管理や冬場の橇犬として、厳しい自然環境下で共存出来た。サモ・エード族と共生して人に馴染んだ、彼らの微笑みをサモ・エドスマイルと言う。

 プレートテクトニクス的視点に立てば、シベリアの東部はアメリカ大陸の西端と言うことになる。古代から近世代までの世界観、ひとの住まない地域、極端に人口密度の低い未開の地はこの世の範疇の外界であった。故に、嘗て海峡を超えて自領であったアラスカの地は日露戦役以前の周辺事情で米国への金銭割譲となった。

 1880年代カナダは英領であり、ベーリング海峡を渡って海岸沿いを南下したロシア毛皮商人は、カリフォルニアの手前で南進を止められた。シベリアからの物資輸送が不自由となり、当時クリミア戦争相手国である英国に地政学上で優位性が保てないため、また地域の毛皮獣を採り尽くした感もあり、紛争相手国でない米国への売却となった。

 遠浅の入江の手前で錨を降ろすと、小舟に乗り換えての川沿いの街へ訪問となった。ヤクーツク以北で最初の行政区管区となる。となかいの放牧畜産と漁が産業の街であり、観光も重要な街の産業である。街主催で歓迎の祭りが催され、昼食会を兼ねた民族イベントとへの参加なった。

 民族衣装に太陽神を崇拝するいでたちの化粧をした、華やかに原色の布地で着飾ったモンゴリアン系の顔立ちの笑顔が乗客達を並んで出迎えた。西部劇映画に出てくるインディアンの雰囲気であり、人懐っこい笑顔は日本人そのままであった。

 河と海の喫水域が低い太陽光に揺らめいていた。その遠い行くてに白い氷原がどこまでも続いているのだろうか?と、果てしなく広がる極北の群青色の空に尋ねていた。

 阪神高速に連結する空港線の入口から急なアールの導入路をアクセルを踏み込んだ。茜色に染め抜かれた都会の空を一機の旅客機が大きな腹を押し付けるように着陸体勢に入り、ストップモーションでフロントグラスの向こう側に迫って来た。急なコーナのハンドリングを伴いながら、助手席の女の表情をはっきりと捉えていた。

 ブルーの瞳の縁を満たし溢れた出た涙が女の頬を一筆描きに堕ちていった。

待ち合わせ26

 エバンキは、シベリアの地域ごとの環境に最適化して、狩猟民であり、遊牧民であり、農耕民と民族様態を変える。そして、それぞれの宗教と神話も変化する。さらに、エバンキの末裔を辿れば、シベリアの大地を彷徨い、点在分化してながら、最終的に朝鮮半島に行き着いてしまう。その半島は天の羽衣の天女の国となるので、大和民族自体が大陸からの稲作文化と北方系由来の縄文人の文化圏の融合と考えれば、北方系エバンキと半島系エバンキの混血文化圏が大和民族の母体となり、その後南方系の稲作民族が圧倒していったと考えられる。エバンキのシャーマニズムは万物に神が宿る八百万信仰に通ずる。エバンキの神話で大蛇ジャブダルは大地の創造神であるが、日本神話のやまたの大蛇は神ではなく、もののけである。但し、出雲の大国主命三輪山に祀った神は蛇の姿をしていたようだ。

 卑弥呼が大陸系の血筋とすれば、エバンキを源流とする母胎を、山東半島辺り経由で移植された南方系文化が圧倒してゆくことで、大陸系の神がエバンキの神をもののけとして駆逐したことになる。

 シベリアの大地の出来方も、考えて見れば、イザナギイザナミによる天地創造の大開百で、淡路島をはじめ大八州の島々及び、森羅万象の神々を創造する国生み神話と比較すると、イザナギがマンモスで、イザナミ大蛇となる。ただし、前者は純然たる土木工事であるのに対して、後者は土台の島々は造りだすが、その後工程は生み出した森羅万象の神々に委ねる。

 シベリアは人口密度が極めて低く、人 の住んでいない、住めない極寒地が大方であるので、森羅万象に関わる神々はいらない。ジャブダルが大地をならして川を造れば、大地を削る川が土木工事を行い、北極海に巨大なデルタを沈黙の中に表出し、氷河による渓谷も造る。他方、人の棲む大和の土地は、森羅万象を司る数多の神々を必要とし、神話の神々と対話しながら民族が歴史を刻んでいった。

 大きな橋の袂の海抜ゼロメートル地点から見上げる、幹線道路が通る路面への階段を登った。階段の途中に朱色の観光掲示板あり、その向こう側に碑が建っている。漢字の読めない女が、男に説明を求める仕草をした。

『明治時代の有名な女小説家の碑文です。』

バルチック艦隊対馬沖に沈んだ、日本海大海戦の時代です。』

『ろしあのかんたいがしずんだのですか?』

『歴史上の事実です。』

『このあたりには、明治時代に活躍した歴史的文化人に纏わる、名跡が散在しています。』

『海外からの観光客はまず来ないね。』

『新幹線を利用して古都詣が人気だけど、移動時間がもったいないと思う。』

『日本文化を凝縮した、明治時代のダイナミズムが作った、この国のモニュメント的文化財が半日工程で回れる。』

『ここと上野の博物館組み合わせれば、ひのいずる飛鳥時代文化財も堪能できる。』

『この国のある意味でもっとも活力のあった時代、もっとも変化を求めた時代、東洋世界の中で息づいたオリジナリティのある日本文化を生んだ時代です。』

 明治の財閥の私邸の門くぐり抜け、財を掛けて作った日本庭園を巡った。女が目を見張った。京都で見た庭園のようだと感嘆の声を漏らした。

 日本国籍を取得して10年以上経つ女は、流暢な日本語を介して旅をすることで、地方の祭りにも造詣が深かった。当然、古都観光も経験しており、主だった日本観光地は主催した国内旅行の数だけ経験していた。女は、男が案内する彼の目を通すことで、傾斜の強く掛かった選別ポイントに感心を示した。

『あなたのぷらんをせつめいしてください。』と長い睫毛の奥から青い瞳が男を見据えた。

 川面に艀が遠ざかっていく風景を、橋の中央あたりに設けられたアーチ状に水面に突き出た展望所から眺めていた。渡る風が女のブロンドの長い髪を陽の中に晒し、中空に解放していた。

男は女の右手をとると、

 『か~く・くらし~ぼ』とひらがなで女の掌になぞった。女は一瞬考え込み、指先で描かれた文字を判読するように眉根を寄せた。川面を渡る風が春の日差しを含んで、彼女の頬を冷たく晒した。しばらくして振り向いた女の口元が逆光の影絵の中に溶けていった。

 

待ち合わせ25

 ブロンドの髪を黒いシュシュでアップに巻いて、紺のニットの帽子の中に纏め込んでいた。デニムの短パンに白い下肢が眩しい、黒のタンクトップに上下お揃いのデニムジャケットを羽織り、ゴールドのネックレスに大粒のダイヤがひとつアクセントとなっていた。女の胸元に夏の光が輝きを点してしていた。ガイド役を勤めるユリヤは、ブーツだけは頑丈そうな登山靴を厚手のソックスの上に履いている。シベリアの森は藪蚊の群生地であり、素肌を晒して大丈夫なのかと問いかけると、幼児時期からダーチャで育っており、蚊に刺されても免疫があるようで、問題ないと笑っていた。招待客は完全に肌を覆い、その上から防虫スプレーで防御しているので、その対比が妙であり、ことさら彼女の存在感が増していた。

 ダーチャとは都市生活者の郊外家庭菜園付き別荘であり、都会人は都市生活基盤の他に週末や夏休みなどの長期休暇に家族で過ごす場所を社会制度として持っている。ある意味、国の経済基盤から隔離されて、自給自足できる個人的な避難施設とも言え、ロシア国民の渋とさの源泉とも言える。

 フェリーボートから川岸に降り立った乗客達を民族衣装の集団が出迎えた。草原のエクスカーションイベントである。標高200メートルを越す石柱群の麓で、現地の村人による出張昼食会が本日のメインイベントとなっていた。ただし、現地といってもここから100km以上は下流域の村となる。

 ユリヤが参加者を引き連れて、石柱群を見上げる下まで導き出し、希望者をその頂上まで案内するようだ。上から眺めたタイガの原生林と眼下に森を流れ尽くすレナ川を是非観て欲しいとの説明をしていた。ときどき、彼女が視線を投げかけて来るのが分かった。ついて来るようにと念を押しているのが知れた。

 男の話すロシア語は、ここでは殆ど通用しなかったが、観光慣れした現地人との英語のカタコトによる会話が可能であることを理解した。そこで、別の隊に同行して、原生林に踏み込んでみたい衝動に駆られた。しかし、ユリヤがベッドで言ったことを思い出した。『迷子になると基本的に置いていかれるので、わたしから決して離れてはいけない。』と言われていた。男の軽はずみな身勝手さを心得ている、ガイド役としての言質であった。仕方なく、彼女が案内する集団の最後尾に付いて、急な登山道を30分程休憩無しで登り切ると、シベリア大地の圧倒的な視界が開けた。

 陽は目線の高さで森の上空に輝いている。これ以上の高度は上がらず、周回して、沈んでいくのだろう。森がどこまでも続いていた。川が行くあてもないようにゆったりと濃い緑をした樹林の世界を包み込むように流れ、河口に向かって続いているのだろう。息を呑む圧倒的な絶景がそこにあった。

『あなた達はどういう関係になるの?』とメアリー・トルドーが尋ねた。メアリーは、ユリアに問いかけ、深い眼差しで男に視線を移した。男は、スープをスプンで口に運びながら、上目遣いで問い掛ける相手の目を見返した。

『それはみんなの大問題なんだ!』とジョン・トルドーが男に視線を投げた。

 昼食後夕方まで、ガイドごとに別れて、タイガの原生林を散策した。ただし、同じコースの終点と始点に別れて逆行したり、長距離組と短距離組に分類された規定の見学コースを選択して回っているようだった。ユリアが採用した散策路は、森の最深部までの案内となっており、参加者を十分満足させるものとなった。男は、遅れないようにシベリアの森に蠢く生き物たちを目に捉えながら最後尾を歩いた。半日のイベント後、船に戻ってシャワーを浴びた後、トルドー夫妻から夕食に招待されていた。ヤクーツクの民族博物館で世話になった御礼とのことであったが、実際はユリアの引率するツアー客の話題の中心となっている、男と女の関係を解き明かす目的となっていた。

 男は、目の前のトルドー夫妻だけでなく、旅の仲間の視線を感じた。彼らは男の一挙手一投足に目を配り、一言一句を聞き漏らすまいと、聞き耳をそばだているようだ。

 ユリアを見れば、素知らぬ振りでワイングラスに唇をつけているのが見えた。

 よく見れば、女の口が何か言っている。繰り返している無言の口の動きが見えた。

 心の中で反芻すると、   『5文字だ』

『日本語だ』

『・・・・・』

さて、どうしたものかと、テーブルに姿勢を糺して観客席全員に微笑んだ。

 

待ち合わせ24

 悠久の川の流れと天空の境界線が仄かに赤く染まりどこまでも続いていた。川面はさざ波で朝の気配を反射して薄紅色に染まり、黒々とした影絵の森の中へと続き、いつまでも眠りについている。

 クルーズ船、ミハイロフ・スヴェトロフ号が朝靄の中、レナ川右岸の船着き場が見渡せる、川の本流から幾分か西岸よりの深みに碇を下ろして停泊していた。22時の日没後4時間ほどして日の出となり、2時には日の出となるので、草原の生き物は活動はじめており、目覚めた森の入り口に面した水面に、白色の客船だけ依然眠りについていた。

『あなたはにほんのれきしくわしいですか?』ベッドサイドの化粧鏡に映った、女のブルーの瞳が、自らの無防備な後ろ姿を見つめるもうひとつの眼を手鏡の中に捉えて、前面の鏡面に見入った。

『詳しくはないけど、簡単な説明くらいは出来るようにはなれると思うけど?』腰の張った見事な後ろ姿を眺めながら、ロシア女の豊満な裸体に圧倒されていた。男は予想外の問い掛けに、盗み見をしていたところを母親に見咎められた、子供のような恥じらいが、顔に現れれているのではと躊躇して言い淀んだ。

 女の意図が透けて見えた。今後もパートナーとしての資質があるのかを試しているのだと理解した。