utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ29

 遠く水平線に浮かぶ白い氷原を背景にして、オレンジ色に染め抜かれた、極北の海の夕暮れをフェリーボートの舳近くのデッキから眺めていた。太陽は沈まないないままで、しばらくすれば、再び天空に戻り船の周りを旋回して再び降下してゆく、荘厳な自然界の摂理の美しさに圧倒されていた。

 顔なじみになった非番の乗組員が、男を認めて話し掛けて来た。ウオッカの入った、ステンレス製の携帯用ボトルを差し出された。

 Как у вас дела?『ご機嫌いかが?』

 Не жалуюсь『まあ、まあですね~』

 ボトルを受け取って、一口煽った。熱い刺激がのどごしに流れ、体の中の何処かに墜ちていった。

 Что нового?『最近どう?』

 Ничего особенного『変わらないよ!』

 夕陽の緞帳が降りるオレンジ色の世界に身を置いて、彼のヤクーツクに於ける暮らしぶりの問わず語りを聞き続けた。男のことをよく知っているように振る舞う、彼に違和感のようなものを感じていた。

 Увидимся позже!『またね!』と別れの挨拶をした彼は、船尾の方に歩いていった。

 彼は一等航海士であり、非番ということは、キャビン・デッキには、その男の替わりに船長がフェリーボートの進路管理をしていることになる。

 航海のはじめ、ダブル・ブッキングによる客室の交換をしたとき、一等航海士の彼が船長代理で立ち会った。ツアーガイド役として乗船していた、女とトルドー夫妻の客室のアテンドに間違いがないのか?後日クレームが発生しないための立会人となっていた。

 ことの顛末を詳しく知っており、2人の乗客が奇妙な同室劇を演じる、その船上劇の幕を開けた、芝居小屋の支配人のような立場であった。

 彼は日本料理のファンであり、ヤクーツクにある、日本の商社が運営するビルに誘致された、テナントのラーメンが旨いと言った。中国人が作る麺料理よりも日本の味が好きなようだ。ロシアの男は、女の作る高カロリーの手料理とウオッカの飲み過ぎで長生きしないのだとも言った。だから、シベリアには昔から未亡人が沢山いるのだと笑っていた。

Вам нравятся русские женщины?『おまえは、ロシア女が好きか?』

Вы ели домашнюю еду женщины?『女の手料理は食べたか?』

Тебе понравился вкус?『味は気に入ったか?』と矢継ぎ早に問い掛けて来たので、とりあえず、

Приветствую вдову!『未亡人に乾杯!』と返すと、

Приветствую прекрасного! любовника!『美しい恋人に乾杯!』と返された。

 2人が、ツアーガイドと顧客という、一方が他方を気遣う関係から、女の日常生活の助手役に変わっていくさまをキャビン・デッキから双眼鏡の2つのレンズをとおして、男女が演ずる無声劇の一部始終を遠く眺めていたのだった。情報が限られた無音の世界で、男女が繰り広げる無防備な心の変化が手にとるように判読することが出来たのだった。

 船の行く手に、乳白色の霧が立ちこめて来た。行くてを見通せないが、慣れた航路をフェリーボートは、霧の一番濃い部分に舵を切って、微速前進となった。