utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ23

 レナ川クルーズ船、ミハイロフ・スヴェトロフ号は、ヤクーツクの港を出ると、一旦、川を遡りレンスキエ・ストルブイ自然公園内の石柱群を訪れた後、北極圏に向かって2週間かけて、ほぼ人の手が及んでいないレナ川沿いをクルーズすることになる。船旅の目的地として、頭数が激減した希少種保護の目的で北米大陸から移殖したカナダバイソンの群れが生息するタイガの森、人口3,000人程のトナカイ牧畜が主産業である極北最北端の町、北極圏以北で狩猟で生計を立てている唯一の家族の居住地などの他、レナ川が北極海への河口に広げた巨大な三角州とパイプと呼ばれる水路や、ユーラシア大陸の北東端側が隆起し続けていることを実証している、堆積層が積み上がった巨大な島々、さらに極地点の証しであるノース・ポール及び、陽の沈む極北の幻想的な太古の世界に繋がる海域となっていた。

 川面を渡る風がここちよい、陽は山陰の少し上方であいかわらず眩しい光を四方八方に投げ放ち、その下界を明るく照らしてはいるが熱量はさほど強くない、どちらかと言えば慈愛に満ちた優しさを帯びていた。ひとびとのざわめきが途切れたとき、その世界を現実に呼び戻すように、船の汽笛が離岸の合図として晴れたそらに響き渡った。

 船着き場を離れると、川の流れに逆らって船体を取り舵いぱいに切ったクルーズ船は大きく弧を描いて、川の中央に向かった。屋上甲板では、周りの風景が移り変わりの動きが速く感じられ、船酔いを誘発するため、船体が川の速度と等速になった時点で、船上パーティーの開会準備が始まった。クルーズ船は、川の流れる速さとバランスした後に推進力を少しずつ上げて、川上に向かって進み出した。

 出航後1時間後にはレンスキエ・ストルブイ自然公園内の石柱群に向かってレナ川本流を遡る半日がかりの航海が始まっていた。翌朝には目的地で碇泊して、タイガの森を散策することになる。そこから反転して、川の流れに乗った北極圏を目指す旅が始まることになっていた。

 川の中央で水流とバランスを取ったあたりで、夕食会を兼ねたレセプションパーティーが開始となった。

 同宿の者同士が同じテーブルに着き、出航時の夕食会に参加していた。船上で初めて顔を合わせる乗客と船の乗組員で非番者と船長が参加していた。一等航海士が操舵を担なっており、上方のキャビンから船上デッキで行われている食事会の様子を双眼鏡で覗いているようであった。屋上甲板は操舵キャビンの後方に位置しているので、船先監視は誰がやっているのかはなはだ疑問であるが、大らかなロシア人の船と思えば、巡航速度維持中でもあり、問題にならないのであろう。

 ユリア・ミハイロビナ・ソトニコフは、同部屋の男の横顔に視線を投げかけて、男の心の奥にあるものが何なのだろうかと見据えていた。彼女はこのクルーズツアーに総勢10名の男女のペアで参加していた。彼女はその団体のツアーガイドであり、企画運営会社の代表者でもあった。4組の男女はそれぞれ夫婦であり、それが彼女の保身の為の営業術でもあった。美しさが際立つ魅力的なロシアツアーガイドは、自身が企画運営したこれまでの旅の中で、言い寄る男性の魔手になんども煩わされた。最終的に男達の面倒は彼らの正式な権利者の手に委ねることが一番であるとの考えに至り、夫婦で参加することを条件としたツアーを募集することになった。煩わしい男女の関係から解放された立場で、ツアー参加者の面倒をみることが出来た。参加するカップルの妻を通して、女同士の連帯感からツアー参加者をコントロールすることが出来るので頗る都合が良かった。

 ユリアと同宿の男には、クルーズ中2人の間に決めごとがつくられていた。それは、ヤクーツクの民族レストラン、マフタルの昼食会の場で男が女に愛の詩を吟ずる世界で決められていた。

 男はヤクーツクの現地で彼女自身が直接クルーズツアーの魅力を説明して、キャンセル客の穴埋めの為に急遽募集したメンバーであった。ただし、船会社との行き違いによるダブルブッキングが発生することで、ツアーガイドとクライアントがスイートルームで同宿する事態となっていた。もともと、日本の取引会社の会議の中で、風変わりな日本人として知り合っていた。ロシア語の勉強中であるとのことであり、彼女の母国語を通してプライベートな境界をいつの間にか互いに踏み越しているような、奇妙な関係となっていた。

 プーシキンの詩を口ずさむ男を女はじっと見ていた。男の甘い声は大柄でマッチョなロシアの男には無理だろうと思った。東洋人の独特な甘い音律で発せられる愛のことばは女のこころの襞を優しく撫でた。

 女の口元が綻んだ。この男はわたしをどうしたいのだろうと、そしてわたしはどうするのだろうと思った。男の一途な振る舞いに女は圧倒されていた。

 ユリヤの青い瞳は男を見据え、そして女は提案した。

『ここはシベリア奥地です。舟の上で2人の会話を日本語ですれば、クルーも観光客も2人以外誰も理解できない、』

『日本語で会話出来るのは、あなたとわたしだけです。』

『だから、2人の会話は日本語でしましょう』

『以前、どこかで2人だけの会話が出来たように、』

『秘密の会話を2人でしましょう』

 男と女を比較したとき、物事の決断が必要なとき決心するまでの判断を逡巡するのは圧倒的に女の方であり、現状維持を選択する傾向が強い、但し、その躊躇を何らかの事情で乗り越えたとき、それ以降は女の方が遥かに大胆不敵となる。万国共通の真理であり、人類が持っている種を残す為に遺伝子に組み込まれた、自然淘汰を生き抜く戦略的な雌雄の役割分担であり営みと言える。

 それは、蟷螂の雌は交尾の中に恍惚感に浸る雄を頭から食い尽くす、そして、頭を無くした残った雄の胴体が交尾を続け、子孫を残すための糧となるため食い尽くされるのによく顕れている。

 ホテルのフロントでチェックアウトするとき、係員から港までのタクシーを手配するので、ホールで待つように言われた。ユリヤが男の港までの移動について、ホテル側に意を含めていたことを知ることになった。男は徒歩で向かうことを伝えて、彼女の好意による手配を断ることにした。ホールを出て石造り階段を降り、今から向かう方角を確かめるように通りを見渡した。 

 道路際に植えられている白樺の街路樹がそこはかとなく頼りげがない立ち姿で疎らに続いていた。永久陶土の表層に根付いた故のひ弱な植生を帯びて、夏の陽に緑の葉を精一杯広げ、渡る風に陰を揺らせていた。白樺の根本付近に目を転じれば、下草の中に薄い紫色の可憐なチコリの花がところどころに点描したように咲き、よく見れば白い綿帽子状のレースフラワー、そしてピンク色の白鳥草や焦げ茶のワレモコウなどの高山植物が一斉に慎ましく咲いていた。

 ホテルの前面の三日月湖に沿って、高山帯の植生でいろどられた道を水辺から吹き渡る風に顔を晒して、遠くに視点を移した。きらきらと白樺の葉が夏の陽を反射して、男の瞳に眩しく差した。白樺の街路を小一時間かけて散策し、港が見渡せる降り口にたどり着いた頃には街路樹は白柳に替わっていた。

 途中、ところどころの街路樹の下草に白に黒格子のシベリアの蝶を認めていた。歩みが進むごとに高山帯の花に戯れるように舞う蝶の頭数が増えているような気がしていた。まるで男の道案内でもするように行く先々に現れていた。

 川の流れが遠く眼下に見渡せる港への降り口からは、坂下に広がる船着き場の前広場にひとびとの群れが見渡せた。そこまで続く坂道が背の低いシベリアの大地の夏を彩る緑色の草木で覆われていた。夏の陽は仰角が低いため熱量は肌を刺すほど強くないが、日照時間が長いため大地の表面温度が上がるので、大気の対流を通して気温は上昇し、30度を超えていた。ただし、日陰に入れば湿度が低いため意外に不快感を伴わない。時折吹き抜ける川面から地表を伝う草木の息吹きを含んだ風が頬に心地よかった。

 リュックサックを背負った男が乗船時の待合い場所を目指して、夏草の繁る坂道を歩いていた。

 ユリアとの昼食後、黄色いタクシーで宿泊先に戻って、クルーズツアーの準備をした。タクシーは、行きに使用した同じ運転手であり、船着き場への道中も事前に予約することを考えたが、帰り道船着き場に寄り道し、そこからホテルまで経路を確認しながら帰ることにした。歩いて30分くらいの道中なので、リュックを背負ってハイクして集合場所に向かうことになっていた。

 男が博物館でシベリアの歴史について博識振りを開陳した、カナダ人夫婦が彼が坂を降りてくる姿を目ざとく見つけて、夫人の方が背伸びして大きく手を振った。夫は周りにいるツアー仲間からの問い合わせに対応していた。美貌のガイドがヤクーツクで新規に募集した新しいツアー仲間が、坂を降りてくる男であると指を差し示していた。

 緑色の絨毯の中に韮のコロニーが白い花で雲を描いており、あたかもその雲に乗ってひとりの勇者が下界に降臨する一幅の日本画のようでもあった。見上げるツアー仲間からは、美神が選べし勇者が雲に乗って今にも降りてきそうに見えた。

 ジョン・トルドーは、男がシベリアの造詣に深いことを語り続け、ツアー仲間達は彼の語るシベリア物語をバックグラウンドに、坂を降りてくる男の一挙手一投足を見つめているのだった。

 メアリー・トルドーが、手を振りながら大きな声で男の名を叫んだ。

 男が坂を降りきると、レナ川まで小川が続いており、その水際に無数の蝶の群れが流れに沿って思い思いに止まっていた。エゾシロ蝶が短い夏の陽の光の中に、水の流れに沿って両側に群生した翅が息づいて、川筋の輪郭を描き直し、大蛇が蠢いているようにも見えた。

 近年、シベリアの温暖化により、昆虫の世界に於いても生態系の激変が起こっている。この地方の永久凍土の表層20数センチメートルの土壌層に於いて息づく季節変化の中で、年を通して圧倒的に低温域の季節が占める割合が多いため、短い春から夏、そして夏から秋への時間軸のなかで、ピンポイントの最適化を伴いながら、虫の世界で種の繁殖サイクルを短期化することで、シベリアの夏の水辺を席巻していた。

 ソプラノの音域で男名を呼ぶ声に、水際の蝶の群れに見とれていた男の目が声のする方角に転じようとしたとき、中腰に屈んだ姿勢から大きく上体を引き起こした刹那、一斉に水辺の蝶の群れが舞い上がった。男の周りで白い蝶の翅が乱舞していた。男は蝶の舞う空間の中心にいて周りを見渡し、大きく目を開き自身のぐるりを舞う蝶翅の浮力で心が浮き上がるのを感じ、嬉しくなって両手を蝶の群れの中にかざした。指先に届きそうで届かない蝶を追ってターンしていた。

 ユリアが船会社と最終打ち合わせし終えて、ツアーのメンバーの待機場所に戻って来ると、彼等が河岸段丘に向かって何やら騒いでいた。一番前で大きく手を振っている、メアリー・トルドーに説明を求めた。

ー He is dancing with insects in a flower field ー

 群生した韮の白い花が一斉に咲くお花畑が一片の白い雲のように、下草の緑のカンバス上に描かれた中に、ひとりのバックパッカーが無数のエゾシロ蝶が乱舞する群れと、楽しそうに両手を上方にさし広げて、白い蝶たちと遊び戯れていた。しばらく見ていると、男が遠くから見返しているのがこちらからわかった。メアリーがそれに気付くと、もう一度大きく男の名を呼んで手を振った。メアリーが叫ぶ彼の名前を耳元で聞きながら、ユリアは男が遠くから彼女を見つめている視線を全身の肌で受け止めていた。マフタルのテーブル越しに見せた、あの熱い眼差しで私を見ているのだと確信していた。

ー Как красиво! ー