utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ17

 ヤクーツクは夕暮れであった。薄暮の季節であり、時刻は21時を過ぎていた。女は、彼女が引率する数人の旅行者と市内観光のため民族博物館を見学したあと、市内のマーケット巡りをした。そして、宿泊先とは別のホテルで夕食をとり解散した。夕食場所に設定したホテルのレストランは、子馬のステーキをオリジナルメニューとしている民族レストランが売りで、わざわざ宿泊先のディナーを止めて特別仕立てした。牧畜が盛んなサハ共和国のヤクート料理ツアーをオプションメニューとして参加メンバーに提供したところ、全員が参加することになったので、総勢を湖を前面に臨む、建物の外装が石造りで帝政時代の内装を誇る、この都市でトップクラスのホテルまで連れて来ていた。

 女は、夕食以降のフリーな時間内でこなさなければならない重要な仕事があった。夕食に選定したホテルには、一人の日本人男性が宿泊しており、男が空港へ出発する間際に彼をインターセプトして、その場で彼女のツアーに勧誘するための場所でもあった。

 夕食を終えて、そのホテルのホールまで集まって出て来たツアー客達から、ホテルの正面玄関を出た階段付近に、夕陽を浴びたひとりの女がオレンジ色に縁取りされて佇み、木造りで設えた正面玄関の枠を通して、フェルメールが描いたような光の中に、一幅の絵画のように見渡せた。よく見るとスレンダーな体型と見覚えのあるラフな服装から彼らのツアーコンダクターであることが判別できた。彼らはその美しいロシア女の挙動を興味深い眼差しで遠くから眺めていた。

 このツアーの参加条件は、夫婦ペアーによる2名参加が必須条件であった。男女のペアーに限定しているのはビジネスに徹したツアー客への奉仕サービスをしたいとの主催者側の考えであり、揉め事を回避したいという都合であった。要するに、無用な男女のもめごとに自らが巻き込まれないためのよく考えられた保険であった。

 主催者である女は、参加者全員にヤクーツクで新規の単独参加者を募集することの了解を得た。そして、その候補者が日本人男性であるとの説明をした。新たに加わるメンバーに対して、ツアー客皆が興味を抱き、女の挙動に注目が集まるのは当然であった。

 夕陽のフレアーに縁取られた天使のリングが、人影の頭上に幽かに浮かんでいた。しばらくするとひとりの男が現れ2人は親しげに抱擁した。その刹那、頭上の幽かな陰が女の頭上から消え、そして男の頭上に現れた。

 Why? That is funny!

   A angel ring haved flied.

と眺めていた者のうちから驚きの言葉が発せられホール内に響き渡った。ツアー客達の場所からは、夕暮れの陽を背に知り合いの女と見知らぬ男が演じるシルエット劇が実によく見渡せていた。

 オレンジの逆光の中から、シベリアの山岳民族エバンキに伝わる大地の創造神であるジャブダルが、淡いピンク色の喉を晒し、二股に分かれた赤黒い舌を動かしながら、彼女のタプル器官が雄のフェロモンを探りあてたとき、地の底から湧くような低い風切り音を伴う唸りの中に、甘く問いかけるような微かな声で、魔法の呪文を唱えた。

 Это из-за того, что

 Я была хорошей или любимой

 добрый вечер

 ユリヤ・ミハイロビナ・ソトニコフは、英国人観光客のツアーガイドとして、S7航空モスクワ発ヤクーツク直行便で当地に入っていた。レナ川14日間のクルーズ及び、ウラジオストク訪問の後、日本歴史探訪を組み合わせた、彼女が企画運営する旅行会社のオリジナルツアーに自ら添乗員兼現地通訳者として、男女10名の富裕層顧客を率いてヤクーツク入りしていた。

 一方で、日本観光を売りのツアー企画にする段になって、現地の情報収集も兼ねて、取引企業の関山基子に連絡をとると、知り合いの男がヤクーツク入りしていること知った。
 他方で、モスクワ空港ヤクーツク便が出発間際に一組の夫婦客がツアーのキャンセルを申し出て来た。クルーズでスイートルームの乗客であり、ツアーの採算性に響いてしまうが、常連の上客でもあり、ツアー自体が大幅に黒字であったため、キャンセル料は取らずに社内の処理で収めた。

 лиха без добра

ロシアの諺に、この国では疫病神は片目のお婆さんのようで、そのため目が行き届かず時々間違いをすると言うような、『不幸のなかにもいいこともあるさ』と言う反語的な言い回しがある。

 『損して得する』と言うのがどこの国でも通じる商道徳であるが、合理的な西洋人よりも東洋人、とりわけ中華圏の戦略哲学に通じるところが大きい。女は、日本での生活をある程度積んでいるので、そこから得た経験学習の影響もあるのだろうが、そのような振る舞い自体は、彼女のビジネスの場以前に、幼い頃からの父母などによる道徳的な教育により培われるのが一般的なのかも知れない。女の生い立ちにそのような素質が含まれていることは、このときはまだ明らかとなっていなかった。

 宿泊先のホテルに戻り、帰国の準備に取りかかる積もりで、永久凍土から建物を切り離して、中空に浮いた状態で建っているホテルの階段を登っていくと、色落ちしたジーンズのショートパンツに白いスニーカーを履いたロシア女が男を出迎えた。見事な女の白い太股が半分くらい露わになったているのが眩しい、ロングの金髪をポニーテールで纏め、両手を広げロシアの親しい者同士が行う歓迎の挨拶をしようとした。

 Добро пожаловать в Россию

 女の胸の隆起がジーンズのジャケット越しに軽く男の胸に押し付けられた。男は女のなすがままの姿勢で軽く両手を彼女の腰に添えた。

 男は、彼女の蒼い瞳の目を見て、瞳孔が大きく開ききっているのを確かめると、反射的に女の耳元に口を寄せて呪文を唱えた。

 Я вас любил : любовь ещё, быть может ,

 В душе моем угасла не совсем;

 Но пусты она вас больше не тревожит;

 Я не хочу печалйть вас ничем.

目の前の相手は上目遣いになって微笑んでいた。身体を預けて来たので、男を受け入れる体制をとっていると理解した。そして、女の耳元でさらに低く続けた。

 Я вас любил беэмолавно,беэнадежнао,

 То робстью,то ревностью томйм;

 Я вас любил так искренно,так нежно,

 Как дай вам бог любимой.

 ロシア女でプーシキンを嫌いな女はいないだろうと、男は至極短絡的に考えた。そして、彼の詩を1編だけ日々のエクササイズの中で暗唱して、愛の詩を諳んじて唱えることに熱中した。いつの日にか、そのことがきっと役だつこともあるだろうと思案してのことだった。

 ー ようこそわがロシアへ ー

 と両手を広げて、歓迎の意を表現する女が両手で男を抱擁してきたときは、まるで無防備となり相手のなすがままとなっていた。立っているのが精一杯であった。やっとのことで、女の腰に手を軽く添えたのだが、半ばハングアップした彼の自律システムが、女の瞳孔の開きに反応して再起動したときには、悪戯っぽく次の一手を繰り出していた。

 男はロシア女へ愛の呪文を掛け続けた。

 よく考えてみると、何故女がそこにいるのかを男は理解していなかった。愛の呪文を唱える以前にそのことを知るべきだとの考えに至った。もともと、恋人でもない相手の腰に手を回し、互いの体を密着させる間柄ではなかった。ただ、一旦はルビコンを渡ってしまったからには、既得権者としてその場に橋頭堡を築くのがあたりまえであり、退却及び転進はありえなかった。

『こにちは』と日本語にスイッチすると、

『こんにちわ』とユリヤが上目遣いになって体を離したので、男は彼女の腰に回した手をひいた。

 しばらく、沈黙が続いた。女は気まずい雰囲気を払拭するように、ホールに向かうことを促すように歩き出していた。

 2人は、ホテルのフロント前の待合いスペースに来るまでに、彼女がツアービジネスでヤクーツク入りしたことと、男が今晩の深夜便でヤクーツクを後にすることを共有していた。正確には、女は彼の予定を日本からの情報で知っていた。男の予定を把握した上で、クルーズツアーの穴埋めが可能かを打診しに来ていた。そのつもりで、レナ川クルーズツアーの魅力を男にプレゼンし、特別割引価格で勧誘する目的で、男の宿泊先で待っていたのだった。

 ただ、実際に再会して自分でも思いも寄らぬ展開となってしまった。言い出しにくい雰囲気となってしまったので、躊躇していた。どう考えても、このままクルーズツアーに勧誘すると、ビジネスだけの話ではなくなってしまいそうな危うさを感じた。

 Чему быть, того не миновать.

 元々、余り時間的余裕のない仕事であった。男が数時間後に帰国する航空便をキャンセルし、女が主催するツアーに参加させるには、本人のツアーへの参加意志だけでことは済まない。ビザの確認が必要であり、もしツアー中に切れることになるのなら、延長の申請を大急ぎでしないといけなくなる。それも出国側入国側ともにである。

 ーなるようになるしかならないー

 と、意を決めた女はクルーズツアーの魅力を男に説明し始めた。すると、男はジャブダルの化身であるレナのことをよく知っていた。さらに驚くことには、ツアーコンダクターとしてそのツアーを企画運営する、現地国のロシア女よりも詳しい知識を異国の男は持っていた。男の国でも風変わりな印象を与えた彼が、ロシアの地で再び軽い心理的な衝撃を彼女に与えることになっていた。

『ビザは大丈夫だから、ここからあなたのツアーに参加しようかな?』と男が言うと、

『わかりました、あなたのツアー会社と話し合って、クルーズツアー料金だけ追加入金で済むようにします。』と女はビジネスライクに答えた。

男は、『Обяэательно! 』と呪文を掛けてみたが相手は全く反応しなかった。

 女の母国語で話かけていれば、また彼女の腰に手を回せる可能性もあるだろうと男は考えた。悪戯っぽく、女の蒼い瞳に見入ると、女の瞳孔は天井に輝く年代物の豪華なシャンデリアの光に反応して、小さく萎んで閉じていた。

 楽しい2週間になるだろうと男は思った。美しいレナの姿をこの目に焼き付ける旅になるだろうと期待に胸が膨らんだ。それに既得権益は守るべきであるとも考えていた。

 ルビコンの対岸からの眺めは素晴らしくよいものであったと男は改めてそう思っていた。

 ロシアの虫達はあの男が気に入ったようだと女は小さく笑った。そして、男に惹きつけられ始めてることを女自身感じていた。男に抱かれている間中、女が引き連れてきたはずの頭上の蚊遣りが、より新しい血を求めて、男の頭の上で飛び回っているのを上目遣いで眺めていた。そして、虫達の耳障りな飛行音をバックにして、大好きな詩が耳元で突然始まったのには驚いた。男が暗唱するプーシキンの詩は、韻を踏む文節なども正確に発音していた。異国の男が一生懸命に愛のことば囁くさまが可笑しく、思わず笑いを堪えるために男の胸に顔を埋めたりもしてしまった。

 女は、ロシアの男でもあんな気障なことはしないと改めて思っていた。

 しかし、悪い気がしないことも確かであった。それは、ロシア女の心の奥底にある、情の湖に幾重にも波紋を広げ、女のこころの襞に触れ、その反射波と同期したり、波同士が打ち消しすることで、最後にはより大きな波に成長する可能性を充分に秘めていた。