utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ16

 『どうして、彼はブロックチェーンのシステムの説明しないでいいと言うのか?』とユリヤが尋ねた。

 彼女が請け負った通訳ビジネスの場に、見知らぬ日本人がいること自体にも違和感を感じていた。

『ブロック・チェーンの会社の紹介者が彼なんです。』と宥めるように関山基子が返答した。

 男自身は、ここに同席してもいいのだろうかと判断しかねていた。ただし、美貌の通訳士の仕事ぶりを見てみたい、興味が大いに沸いていたし、行きがかりでそのような舞台に上がってしまったと言うより、回転舞台が回って、気が付いたら舞台の中央にいたと言う心境であった。

 男は、この企業の株主に出すのだと言う案内状の原稿を読んでいた。

 久しぶりに見た女のスタイルの変貌ぶりに驚いた。小柄な女がすらりと、黒縁の眼鏡をかけて、白のブラウスにチェスでも出来そうな紺と灰色のベスト、黒いタイトスカートに、黒いヒールで男の前に現れた。

『痩せたね!』と男が両手を広げて驚いてみせると、

『そうですか?』と声がうわずって、まんざらでもなさそうな自信を見せながら、女は手にした書類を男に手渡した。

 関山基子から校正して欲しいと依頼され、手渡された文章を読み終えての感想を指摘した。最初にどんな対象に出す案内文なのかを確認した。主要な株主で前年度の総会開催時に一任状を集めた対象であった。プロキシーファイトを前提に電話による議事の委任依頼した相手であり、生身の彼女の声を通して思いを伝えた相手であった。こまごまとした説明をするべきでなく、また、装飾された言葉は不要であり、具現化されていない将来の夢を語るより、頑張ってやっていると言う思いを素直に相手に伝えるべきだとの主旨で、宝飾品鑑定システム化の説明部分は不要であり、邪魔であると指摘した。

 トランスレイターとして、そのあとスカイプを介して行われる会議に参加する予定のユリア・ミハイロビナ・ソトニコフは、2人のやりとりをテーブルの向かい側の席から興味深く見ていた。

 彼女の身の回りで知っている、控え目で自らの感情の起伏を積極的に表現しようとしない、この国の男達とは異なるその男の振る舞いに、女のこころの奥底にある情の湖が小さく波打った。女性を誉め讃え上げる嘘がまぶされたやさしい言葉に包まれて、目の前の関山基子の心の内の満ち足りた充実感を懐かしく嫉妬した。女は、嫉妬している自分自身に惑いを感じた。

 男は、完成したシステムの開示は問題ないが、稼働もしていないこの企業肝いりのネタを総会の場に晒すことの危うさを感じていた。

 総会を主催する側として、すべきことは総会に付託した議案を通すことであり、まずは総会を成立させる為に必要な議決権数が必要であり、議案を通す為には賛成株主数を集めることであった。

 年次報告が法律に則って正しく報告されていればよく、付託された議案を通すために、絵に描いた餅が如何に立派に描けてもしようがない、要するに過半数の株主からの委任状を手に入れて、恙なく議事進行する以外は不要である。

 最低限の報告をして、議案を通す為に何を成すべきかを考えるべきであると考えていた。余分なことに費やすエネルギーがあるのなら、商取引の環境設定などやることはいくらでもあるはずだとの考えであった。当事者でないことが、インサイダーでない視点を持ち得ることとなり、その場の成すべきことがより見通せていた。

 総会で現在の努力していることを説明をするより、実態を整えることがより重要であり、それが全てに優先するはずとの考えであった。

 ガラス越しに東京駅前丸の内界隈が春の日差しに眩しく、赤煉瓦のドームが両翼を広げ、背景として泰然と和田倉噴水公園の向こうに皇居を拝して開けていた。高層階から見下ろしたロータリーには人はまばらだが、ひとの流れの主流は路面下の地下に隠されてしまっていると見た方がよい。

 地下に潜ると迷路のような地下街を通して目的地にたどり着くには、この近くに勤めているか、定期的に特定の場所へ通い慣れているものでない限り、地上から目的地を目指して歩いた方が無難である。信号が変わり、数人が駅側から横断歩道を渡りはじめた。観光客が皇居方面に向かって歩いているか、お洒落なカフェテラスなど目当ての散策であろうかと、高層階フロアのエッジに出現した小さな日溜まりの中から、ひとりの男が眺めていた。

 彼が、朝10時に開催された出資先企業の株主総会に出席して、新丸ビルのエレベーターから1階で降り、左に折れて行き止まりを右手に向かうと、行く手上方の大きなモニターにCNNのニュースが流れていた。

 マリナーズのイチロウが東京ドーム最終戦後に引退表明したと英語のテロップが流れ、インタビューに答えるイチロウは日本語で会見していた。

 モバイルがジーンズのポケット内で震えた。

 ラインに昼から会社に寄って欲しいが都合がつくかの問い合わせであった。関山基子の会社で急遽開催される会議に参加して欲しいとの控え目なテキストがどうにか都合をつけて来て欲しいと主張していた。夕方の新宿から帰宅する予定以外は、上京時の趣味で博物館での鑑賞と、馴染みのイタリアンレストランで昼食をするくらいなので、どうにでもなるが、とりあえず帰りの便の予約取り消しがぎりぎり間に合いそうなので、そうすることにした。

 昼めしは浅草橋で最近みつけた馴染みの店の姉妹店が頭にすぐ浮かんだ。一度利用して味を確かめようと思っていた店である。両国に友人の会社が在ったときは、昼過ぎに、駅を降りてすぐの高架下にある、日銭稼ぎスタイルのお気に入りの店で腹ごしらえした後に、目当ての会社の自社ビルまで10分ほどの道中を、下町の枝道を選んで歩いた。途中には馬車道があり、鬼平犯科帳の軍鶏鍋屋のモデルとなった店の在ったと言う、江戸時代には川端であった、首都高速道を見上げる石造りの橋の袂に立て札が立っていたりする。街角のショーウインドには珍しい小物類が展示されていたりして、飽きが来ない風情を持った、得体の知れない街並みを歩くのが楽しくもあった。

 事務所のドアを開けると、交渉相手であるベンチャー企業の30代の経営者と技術者と思われる20代後半の男がテーブルについており、関山基子が彼女の横の席に男を促した。

『初対面ですよね?』と立ち上がって、交渉相手が名刺入れを開いた状態で、男に確認して来た。

クラウドシステムのプレゼン聞きました。』と男が相手を見上げて言うと、

『どこで?』と想定外の展開に戸惑いを表す薄笑いが相手の表情の中に走った。

新丸ビルベンチャー企業の集まりでプレゼンの後に名刺貰ってますよ、』と立ち尽くすような素振りの相手を見据えた。

 男の意味合いが通じたらしく、相手は連れの技術者に目配せで何らかの合図をしたと男は感じ、露払いは済んだなと判断した。

『Mさん居ないけど、進めていいの?』と男がこの場の会社側代表である関山基子に確認すると、

『はじめてください。Mさん後から参加出来ると思います。』

 1時間ほどかけて、男が把握出来ている範囲内で、システムの具体的な概要を聞き込んだ。男が要件書らしきものをテキスト化し関山基子に渡したが、それを先方に渡したと聞いていた。テキスト送付後、先方から改めてシステム開発書が提出されて、それに則って開発途上であり、デモ版が納品されていた。バックエンドで稼働させるサーバー仕様と設置場所及び、拡張性とそれに伴う開発費とランニングコストをミニマムから最適稼働規模まで確認した。

 開発費は無償で、維持費の妥当性を確認するのが男の役割のようであった。開発したシステムの業界における独占使用権を認めさせ、この会社が持つ共産圏での権益で商売をして、自ら稼いだ方がビジネスになると第3者の立場で意見した。

 要するに値切倒した。一応、要求額を半値にし、特許権を渡す代わりに業界内のみの独占使用権を認めさせた。一般的に言って、関東人は交渉ごとで提示された見積もりを値切らない、関西で仕事した経験のある男は、交渉相手に少しの利幅を残して値切ることに長けていた。

 晩秋の日暮れは突然のように、気づいた時には人の影絵を長くして、足早に夜の帳を引いてしまう。事務所の窓から見渡せる向かい側のアスレチックスジムの大きな硝子の壁が茜色に染まっていた。隣り合う鳥越神社の黄色く色づいた銀杏の葉が夕凪にはらはらと舞っていた。

 スカイプ越しに、現地語での問いかけを日本語に訳すだけではどうも通訳者は務まらないようだ、ロシア語のやりとりを見ていると、仲介者としての機能の方が通訳者の能力以上に必要であると感じた。聡明で知的な応対を要求される仲介役によるその場やりとりを、通訳者本人の価値観で解釈した内容に基づいて、日本語でクライアント側に理解できるレベルに噛み砕いて聞き返し、確認を取りながら、翻訳しているさまを身近で確認する事になった。

 現地弁護士とのやりとりを仲介翻訳しようとすると、法律上の用語や、争議の内容に関わる業界用語についても通訳する事になるが、いちいち全ての語彙を確認していたら、会議自体進まなくなってしまうため、一区切りついた後、疑問点を列挙して、その部分はロシア人としての見解でどう訳したかをクライアント側に提示して確認をとっていた。

 会議は1時間ほどで、クライアント側の満足いく内容で終わったようだった。ただし、そのあと展開した、男の目の前で見せた彼女のバイタリテイに目を見張ることとなった。

 ユリアが徐にMの席に近づくと、何処からか取り出した小さな袋から冷たい光を放つ数粒の透明なルースを手元で広げた紺色の柔らかそうな布の上に撒くように晒した。

 その刹那、女は天然ダイヤモンドのブローカーへと変身していた。小さな布の上で輝く宝石はどれも1カラット以上あるようで、品定めを依頼しているようであった。しばらく、2人で話し合っていたが、ルース自体の値踏みをしてもらっているようだ。仕入れたルートや鑑定書の有無を確認していたように見えた。通訳業の生業の奥深さを、金色のフェロモンを湛えるロングの髪と、目の奥から見据える蒼い瞳を持つ女がひとり生きてゆくための術を、どのようにその糧を調達して来たのかを男は垣間見た気がした。

 男は、女が帰り仕度をするとき、宝石の入った子袋を自身の肌身にしまい込むのを見逃さなかった。手持ちの皮のバックからコンパクトを取り出し、化粧崩れがないかを確認し、フード付きの灰色のベストを黒のニットセーターの上に羽織りながら、腰の辺りで絞りのある色落ちしたジーンズジャケットを着込んだ。問題の子袋は黒のニットセーターの胸の谷間あたりにしまい込んだようだった。

 ポニーテールに纏めていた黒いシュシュから解放された、金色の髪はジャケットの肩あたりに波打ち、灰色のフードの中で匂いたつような色香とともにとぐろを巻いていた。そして、その波打つフェロモンのストリームは女自信の手によって黒い呪縛の中に絡め捕られてしまった。

 男が、ユリヤの帰り際に、さようならとロシア語で挨拶すると、切れ長い目尻に研ぎ澄まされた微笑みを溜めた女は、一瞬相手に注視を返してから、ロシア語で挨拶を返した。

『もう、2人で話してる!』と2人のやりとりをそばで聞いていた関山基子が感嘆の声あげた。

『彼はロシア語勉強してます。』とユリヤが言いわけをしていた。

 男は女2人のやりとりを見ていた。この場でロシア語を介して意志疎通出来るのは男と彼女だけなのかと悟った。

Почему ты посмотрел на меня?

Потому что ты красивая

 ロシアの女性と結婚すると、夫は妻に対して、日々妻の美しさを讃え続けなければいけないらしい。人生の内大半を占めてしまう夜の長いロシアの日常で、彼女達は蝶よ花よと褒め讃えれることで、モノトーンで単調になりがちな黒い影が隣り合う生活のなかに、自らの生き甲斐を感じる生き物のようだ。

 無造作にポニーテールにまとめた金髪の女が、男の前を通りすがら、彼から視線を外した状態で独り言のように男に問いかけた。男は、彼女が通訳業を務める間中、彼女の横顔に食い入るように熱い視線を投げ続けた理由を、2人だけの言葉で、美貌のブローカーに悪戯っぽく開陳していた。

 そのとき、男の視線は目の前の女の白い、獲物を注視する爬虫類の化身のように研ぎ澄まされた、透き通った横顔に魅入られたままとなっていた。