utama888の物語

ショートショート

待ち合わせ12

 コツンコツンと床を叩く4ビートの硬質音がフロアー全体に遠く響いていた。しばらくすると、コツコツコツコツと8ビートにアップテンポされ、捕獲行動を伴う女の歩調と同期していった。

 空港入国ゲートをくぐってすぐのポールフェンス制限区域越しに、出迎える人の群れを背にした辺り、待合い用のボックスチェアーに待ち人が数人疎らに座席を利用ていた。

 入国手続きは、フォリナー数人の最後尾に並んで数分待ったが、審査自体は女性検査官が数秒間の一瞥とパスポート審査のみで終了した。

 その国の入国ゲートを見渡した。早朝6時20分であり、約束した時刻には40分ほど早いので、どこで時間潰しをするか思案した。

 アップステアーズの珈琲ショップから、階下フロアーを見下ろせる縁際に席をとり、人の流れを見ていることにした。朝早いのもあって、航空会社のカウンターが一部しか開いておらず、空港全体が未だ目覚めていなかった。泊まり込み組と思われる数人の集団が、早朝便の搭乗手続き待ちでそれぞれの航空会社の前で列を作っている。ここからは待ち合わせエリア全体が見渡せるので、待ち人と行き違いになることはないと考えてのことだった。

 7時を過ぎたら待ち合わせ場所まで降りる予定だったが、広く見渡せるので、彼女が歩いて来るのを見つけだし、それから降りても十分間に合うと思っていた。階下の広場中央の時刻表示は6:28を表示している。

 サウナが階下にあるのを思い出し、昨晩からの汗を流すことにした。席を立とうとして、念のため階下を見渡そうとしたとき、テラスとしてフロアーから突き出したした壁の堰堤部分に動くものを見つけた。小さな緑いろをした虫のようだった。数匹が絡み合って鞠のようになり蠢いていた。一匹なら何かで叩き潰すのだが、後始末の面倒を考え手を止めていた。

 男が窓際のテーブルを離れて店の出口に向かおうとしているとき、白い表面がごつごつした堰堤の上で、小さな緑色の鎌が一斉に男の背に向かって、擡げられたのを誰も気付かなかった。

 コツコツコツコツとリズミカルな足音が近ずいて、男の目の前辺りで停止した。

 待ち合わせ用のスペースに腰を下ろし、スマホの画面を操作している視線の延長線上、下を向いた視界の中に黒革のショートブーツに目が止まり、ピンヒールの裏地の赤に惹きつけられた。

 蟷螂のようなもののけが口を大きく開け赤い喉もとを晒し、床の下から何か叫んでいるようにル・ブタンのヒール・ブーツが男の正面で停止した。

 男は、上目遣いで足元から目の前にいるだろう異国のガールフレンドの見覚えのあるスタイルを下から仰ぎ見るかたちとなった。女が硬質なヒールに支えられた腰高の姿勢を維持しながら、ジーンズに納めた膝を落とし、オリーブ色のレザージャケットを着た上体を右側に捻って、右手で長い髪を後ろ手で支え、男の顔を覗き込んだ。男は、怪訝な表情で眉根を寄せて、女の瞳の中に彼自身の写像を捉えた。

 1年6ヶ月振りに女の母国での再会であった。

『このまえを2かいとおった』と鋭い視線で男をフォーカスして、

『あなたわたしわからなかったか?』とひらがな読みの日本語で女が詰問した。話し声とスタイルは男が知っている女にちがいないのだが、見知らぬ顔をしていた。

 彼女が休日を利用して車で空港まで迎えに来ると言う段取りで、早朝4時半羽田発仁川行きの航空便を利用する事になった。

 彼女曰わく、

『みんなそのひこうきでかえってくる』とのことであった。

 その国の人間が勧めるフライト便なのだから便利で都合がいいのであろうと考えてそうすることにした。

 はじめに困ったことは、その便を利用するための空港までの公共交通機関をどうするのか?と言う問題が発生した。

 山手線は動いてないし、始発の私鉄なども調べてみたがうまくない、ではリムジンバスのようなものは無いか?と考えあぐねて、空港ビルに最終間際の山手線とゆりかもめで乗り付け、空港待合い室で夜なべすればいいのか?となった。若くない身に夜間空港待合いベンチで徹夜とは想定外となった。そして、歳の離れたガールフレンドとの逢い引きは大変であると改めて感じた。

 繁華街のガールズバーのようなところで働いているようで、

 彼女曰わく『のみやさん』であった。上京した折り、男の知っている範囲では全くの下戸であった。

 この国の女性は整形美容をほぼ全員がするとの噂を信じるとすれば、顔を作り変えたのだろうかと疑っていた。他方で別人をよこしたのだろうかとも考えていた。

 女に促されて、空港ビル前の駐車場に向かった。並んで歩いている間中、疑いを反芻していた。

 空港ビルを出て横断歩道をそのまま渡り、左に折れた階段室の裏手にグリーンメタリックのBMWが駐車していた。その派手な車の左側ドアを開けた後、トランクルームを開くと、男が手渡した日本土産の入ったショッピングバッグを仕舞い込んだ。

 彼女と会うだけなら土産など持参しなかったが、ルームメイトと住んでいる部屋に泊まることになっていたので、部屋を開けて実家に帰ると言う友人用に、日本製のコスメティック化粧品とスナック菓子をショッピングバッグに詰め込んで来ていた。  ネットで検索した結果のボリューム感溢れる日本土産になった。好みのカラーなど分からないので、買い求めた店舗のフルカラーを買い求める結果となった。

 トランクルームの奥に仕舞い込むときに中身を確かめていた。

『やすいけしょうひん』と言いながらも、フルカラー揃っているのに目を見張って笑っていたので、ネット検索して想定した彼の国の女性の好む日本土産と彼女の好みが同期していたようで、男の選択は合格のようだった。

 仁川空港からソウル市内の交通渋滞を避け、郊外へ通じる環状線のような高速道路を走っているようだ、何処に連れて行くのかはドライバー任せになっていた。

 空港に掛かった大きな橋を越え交差点で左折する段になり、右座席に座った男の視界に右折して迫り来る大型トラックが目に入ったので、サングラスをしてハンドルを手にする女に大声を出して注意を促すと、ハングルで何やら反応していた。

『ウザイ、見えてるから大丈夫よ!』と言っているのだろうと、男は理解した。

 行き先を気にかける余裕などなかった、郊外に出てからスピードメーターは180kmあたりまで上がっており、旅行障害保険に未加入であり事故が発生した場合の入院費用は自腹になるのかと覚悟を決めるしかなく、シートに深く沈んみ込んでいた。

 狂気のスピードで疾駆する黄緑のBMWは次々に獲物を捉え、車線変更すると、あっと言う間に追い越し続けた。助手席で更に深く沈み込む以外手だてがなく、事故遭遇の場合は助手席だから死亡が確実で、瀕死の重傷で救急車で運ばれるのは運がいいときなんだろうとの境地に至っていた。

 ソウル郊外の環状線から内陸に向かう高速道路に入る間際で、道路脇のドライブインに入った。屋外の丸テーブルで女が調達したコーヒーとよく分からないスナックを義務感で咀嚼した。

 売店のメニューはハングル表示であり、絵によって判断するしかなく、ウォンも持っていないので全て女に任せた。

 食事をしながら、男が女の国に滞在中の予定を打ち合わせた。改めて本人に違いない確証を得たのだが、顔の印象はやはり違っており納得出来なかったが、その場はそのときの流れに任せていた。

『にほんごでわからない』

『てれさ・てんのうたのだいめいいってみてください』

『こいひとみたいなうたのだいめい』

 片側4車線以上ある高速道路の中央車線を疾駆する車のハンドルに両手を預け、前方に視線を向けた体勢で問いかけて来た。

 唐突な単語の羅列に反応出来ないでいると、

『からおけでうたうきょくです』とさらに付け加え男に問いかけてた。

『・・・』黙考すると、彼女が読めない漢字2文字の熟語であり、恋人に蕎麦てんの判事ものが答えであるとなった。

『愛人?』とアンサーすると、

『それです』と笑いながら続けて言った。

『あっちにもこっちにもあいじんいるでいいでしょ』

『あなたときどきこっちくればいい』

 濃いメークの横顔を見ながら、本当に知り合いの彼女なのだろうかと疑った。

 高速道路がいくつかの分岐点を通り過ぎ、山間部に差し掛かると車線数が減少して来た。朝の8時には空港を出たので、3時間ほど経っており少し不安になって来た。

『あとどのくらい行くの?』

『あといちじかんくらいです』

 しばらくすると高速道路を降り、片側1車線の一般道路に出た。さらに対抗車とほぼクロスしない、車1台がやっと通れるくらいの山道にはいった。

 紅葉で色づいた木々の葉がフロントグラス越しに、行く手の風景の中で灯籠影絵のように流れていった。黄と紅の葉に色づいた晩秋の森の中、落ち葉が舞い降りる小径を枯れ葉を巻き上げながら目的地を目指した。

 森から出て、谷川を左下に臨む山の斜面を切り崩したダートをしばらく行くと、谷側に張り出したカーブの曲がり角に車が停止した。

 車を降りて下を見ると、谷川をせき止めて出来たような細長く続く山間の湖が、空の色を映し出しているのか、妙に蒼深を帯びた水を湛えていた。

 女が、切り崩した斜面に造成された、ひと一人がやっと通れるくらいの小径を降りていった。

 小径に後を追うと桟橋を備えたウォータースポーツのベースのような建物が現れた。彼女に追いついた男はそこの運営関係者らしい女性を紹介された。

『ヤムサヤ』とハングルで挨拶しながら、日本人の男がお辞儀をすると、相手の女性もお辞儀を返して来た。

 こう言う場合、女性は大抵『お姉さん』であり、男は『オッパー』として紹介される。

桟橋には、白いプラスチックチェアと金属製の丸テーブルがいくつかあったので、湖が広く見渡せる中央にポジションをとることにした。先程紹介された女性に女が珈琲を頼んでくれたようで、湖面眺めていると飲み物が出て来た。

 湖面に沿う低い目線で、目の前で行われる水上滑走を見ていた。

 モーターボートの唸りが遠く水面を渡り聞こえた、はじめは湖面に不連続な1点が現れ、それが白い一筋の飛沫に代わり、みるみる大きくなった。水の飛沫で出来た壁を両サイドに従者のように従えて、中央に牽引ケーブルをグリップする女が湖上に咲いて目の前を通り過ぎ、そのエントロピーが最大となりデッドポイントを迎えたところで、大きく立ち上がった水の城が一瞬にして崩れ落ち消滅した。

 ウォータースキーは、相当ハードなスポーツであり、バランス感覚と強靭な体幹と腕と下半身の筋力を要する。モーターボートで牽引するワイヤーの先にハンドルを付けた部分と水面に立ち上がるウォータースキー上の前後2点の両足で支える3支点間で、牽引ワイヤーを引くモーターボートの推進力を水面を推進するベクトルと水上に立ち上がる揚力とに分解することになる。そのため湖面から受けるボートの推進力にほぼ等しい抗力に打ち勝つ、強靭な体幹と両手両足の強力な筋力が必要である。そしてその抗力に打ち勝って水面上に立ち上がることで摩擦係数が限りなく小さくなり、水面を滑走することになる。

 見ていると、水面への立ち上がりに2度失敗していた。ワントライ10分で入江の左手奥の方から桟橋の前を横切り、右手奥でターンして、再び左手奥の山影の向こうまで湖面を滑っている。10月初旬であり、山間部の湖水の水温は10℃くらいなのだろうか、ウエットスーツを着込んでも体力的に10分が限界のようだ。

 無線通信機で牽引するボート上の操縦者とやりとりしながらの水上滑走のようで、左の側頭部にアンテナが揺れていた。ワントライごとに暖を取りながらの休憩を入れて湖に入っていた。

 この後どうしたものか男は考えていた。3時間かけて街まで戻るのは如何にも大変である。ホテルの予約は、最初は繁華街のホテルを探したが、女が送り迎えする車の駐車場が必要であり、適当なところがなく、空港近くの郊外に駐車場完備のレジデンスを探しあて、一度予約を入れ女に相談すると、結局は女の主張に合わせるかたちになっていた。入国手続きも宿泊先住所は知らせてきたマンションの住所を起票していた。

 最後の滑りを終えて、ボートの2サイクルエンジンが高回転で湖水を巻き込み吐き出す金管音を立てて、桟橋の手前でターンして沖に向かって舵を切った。

 遠心力を利用して、スケーターが桟橋の手前でボートを起点として弧を描き、その弧の接線上に桟橋の水際が来る時点で牽引ケーブルから手を放し、惰性で湖面を数メートル進んで水面下に沈んでいった。

 スケーターが水面に顔を出したとき、彼女の手には今まで履いていたボードが握られていた。

 水際にたどり着いた女からボードを受け取ると横にかわし、水から上がるための手を差し出すと、水中から縋った彼女の重みが男の腕に掛かった。その重みの意味あいを男の肉体が覚えていた。

 ウエットスーツのヘッドキャップを外しながら、男の目の前で女が立ち止まった。男の目が食い入るように女の横顔を見つめた。彼を空港まで迎えに来た女ではなく、彼がよく知っている女がウエットスーツを着込んでいるではないか、早朝の飛行機で遙々会いに来たガールフレンドがそこにいた。

 湖畔のウォーターベースに夕暮れの風が吹き抜けた。目の前の桟橋の水際を小さな波がなんども打ちつけている。ほんの少し前に湖面で弧を描くように、彼女自身が波立てた衝撃が向こう岸で反射され、桟橋の水際まで押し返されて来ていた。

 女が着替えるため更衣室に入って行く後ろ姿を見送ったあと、男は中央の丸テーブルに戻り白い背もたれ椅子に腰を下ろし、ついさっき見た女の正体を見極めようとした。

 女はさっきから自分をじっと捉える、男の視線を感じていた。湖上での練習を手仕舞いし普段着に着替え終えると、待たせている男のことが気になって来た。了解をとっているとは言え、自らの都合に半日以上つきあわせたことになっていた。

 薄暗い湖上のフロアーの向こうに夕陽が山影を赤く縁取り、暮れかけた湖面は無風となっていた。水際に波の音は消え、2人の居る空間は時を刻むの忘れたように凪いでいた。

 バスタオルで顔についた雫を拭い終えると、大きな瞳を開いて男を見据えながら女が言った。

『化粧落としたから』

 男が目の前の女の仕草を愛おしむようにさらに見つめて、上目遣いにぽつりと言った。

『今の方がいい!』

 暮れ掛かった薄暗い時空の中で、山の端に残った陽に女の影絵がストップモーションでゆっくりと流れ、男と女が見つめ合うかたちになった。

『自然がいいのね』と女が微笑んだ。